もともとは、テニスコーチでした。
中学に入って硬式に転向しましたが、小学校時代からのテニス・プレーヤーです。今でもやっているので、一年中、日焼けしています。口の悪いお客さんには、「メキシコ人の血は何パーセント入っているのでしたっけ?」とか、「ホセ・メンドーサ!」とか名づけられたりしていますが、100%日本人です(うーん、だと思います。。。というのも、最近1日一度はスペイン語で話しかけられます。。。)。
大学、慶應義塾大学では、体育会テニス部に入らずに同好会(慶應九球テニスクラブ)でNo.1プレーヤーでした。同好会のテニスでは、慶應の塾内、関東同好会連盟ともに、活躍したと自分では思っております。テニススクールのコーチをこの間ずっとやったのが、コンサルティングというか、教える仕事の面白さ、分かりやすくテニス理論を解説して、よいプレーヤーのプレーを目で見ている生徒さんに、そのよいプレーを自分自身のものとして再現する「コツ」のようなものを、お伝えすることが好きになりました。これが、30歳近くになってから、コンサルタントに転じる基礎になったのかもしれません。
その後、大学時代、あまりに勉強していなかったので、人事の方に「社会勉強が出来る」と口説かれて、三洋証券に入社。久米宏さんが司会で、「NHKのニュースセンター9時のすぐあと(磯村尚徳さんが、アメリカのキャスターのように斜に構えてニュースをやっていましたね)、夜の10時代にニュース番組なんか受け入れられるわけが無い!」と馬鹿にされながら始まった、あのニュースステーションの単独スポンサーであった、あの会社です。「変化を先取りする三洋証券!」がキャッチフレーズでしたが、証券不況の「変化を」文字通り「先取りする」形で、山一證券のすぐ前に破綻しました。話が脱線しましたが、そこで、支店での法人営業、本社の引受、企業部を経験して、株式公開コンサルタントになったのが、コンサルタント人生のスタートです。29歳でした。
関与したコンサルティングは、株式公開コンサルティング。証券で、引受の勉強をして、企業部に所属しました。三洋証券が、主幹事をとっている会社が数社しかなかった中で、久しぶりの主幹事を獲得できたことは、大きな経験でした。天然素材を原料にした化粧品を作っている会社さんです。赤坂の高級レストランで、主幹事を頂いたお客様を招待して食べたあわびのステーキは忘れられない味でした。スミマセン、また、脱線しました。まさに、株式公開を希望する会社さんを相手にしていたこともあって、コンサルティング事務所に入って、どのように公開企業としてふさわしい、証券会社(主幹事証券)または証券取引所の審査に耐えうる会社組織を作っていくかは、非常に面白い仕事でした。時には監査の仕事がありましたが、2泊3日で金沢に出張して、金沢の企業を買収するためのQuick Reviewの仕事があったときは、買収される会社さんが取ってくださった金沢で一番の旅館の名前だけを聞いて、とうとう敷居をまたがないで帰った上に、会社に戻ってレポートを仕上げるために徹夜したなんていうこともありました。監査嫌いはこのときの経験からです。
大学、慶應義塾大学では、体育会テニス部に入らずに同好会(慶應九球テニスクラブ)でNo.1プレーヤーでした。同好会のテニスでは、慶應の塾内、関東同好会連盟ともに、活躍したと自分では思っております。テニススクールのコーチをこの間ずっとやったのが、コンサルティングというか、教える仕事の面白さ、分かりやすくテニス理論を解説して、よいプレーヤーのプレーを目で見ている生徒さんに、そのよいプレーを自分自身のものとして再現する「コツ」のようなものを、お伝えすることが好きになりました。これが、30歳近くになってから、コンサルタントに転じる基礎になったのかもしれません。
その後、大学時代、あまりに勉強していなかったので、人事の方に「社会勉強が出来る」と口説かれて、三洋証券に入社。久米宏さんが司会で、「NHKのニュースセンター9時のすぐあと(磯村尚徳さんが、アメリカのキャスターのように斜に構えてニュースをやっていましたね)、夜の10時代にニュース番組なんか受け入れられるわけが無い!」と馬鹿にされながら始まった、あのニュースステーションの単独スポンサーであった、あの会社です。「変化を先取りする三洋証券!」がキャッチフレーズでしたが、証券不況の「変化を」文字通り「先取りする」形で、山一證券のすぐ前に破綻しました。話が脱線しましたが、そこで、支店での法人営業、本社の引受、企業部を経験して、株式公開コンサルタントになったのが、コンサルタント人生のスタートです。29歳でした。
関与したコンサルティングは、株式公開コンサルティング。証券で、引受の勉強をして、企業部に所属しました。三洋証券が、主幹事をとっている会社が数社しかなかった中で、久しぶりの主幹事を獲得できたことは、大きな経験でした。天然素材を原料にした化粧品を作っている会社さんです。赤坂の高級レストランで、主幹事を頂いたお客様を招待して食べたあわびのステーキは忘れられない味でした。スミマセン、また、脱線しました。まさに、株式公開を希望する会社さんを相手にしていたこともあって、コンサルティング事務所に入って、どのように公開企業としてふさわしい、証券会社(主幹事証券)または証券取引所の審査に耐えうる会社組織を作っていくかは、非常に面白い仕事でした。時には監査の仕事がありましたが、2泊3日で金沢に出張して、金沢の企業を買収するためのQuick Reviewの仕事があったときは、買収される会社さんが取ってくださった金沢で一番の旅館の名前だけを聞いて、とうとう敷居をまたがないで帰った上に、会社に戻ってレポートを仕上げるために徹夜したなんていうこともありました。監査嫌いはこのときの経験からです。
アメリカへ、公認会計士、そして、弁護士に。
「アメリカに行かないか?」という提案は、同じ士業である、弁理士の父からの勧めでした。子供が生まれたばかりで、軽く受け流していたのですが、勤めていたコンサルティング会社の業績も芳しくなく、副社長で公認会計士の先生も、私を買ってくれてはいたのですが、「士業として、資格を持たないと、コンサルタントとしての大成は難しいだろう」と、丁度人手が余っていたこともあって、父に加担して留学を後押し、私はアメリカに留学し、資格取得を目指すことになりました。
なぜ、日本ではなくて、アメリカか?これには、昭和一桁生まれで英語に強いコンプレックスを持っていた父にとって、資格を取得すると同時に語学を習得出来るという環境が理想的という思いがあったのでしょう。なぜか、「アメリカに行け、アメリカが良い」と譲りませんでした。アメリカ全土を2周バックパック旅行していた私もアメリカの広大な大地が好きなタイプですので、断る理由も無く、家族には、苦労をかけましたが(企業派遣などと違い、ともかく貧乏留学でしたので)、アリゾナ大学で会計学を、ニューハンプシャーに移って、フランクリン・ピアース・ローセンター(現在のニューハンプシャー大学ロースクール)で法律を勉強して、1998年公認会計士試験に、1999年に弁護士試験にそれぞれ合格して、2000年にNY州の弁護士登録、2年の実務経験の後、2002年にNH州の公認会計士登録します(こちらは、現在Inactive)。
「アメリカに行かないか?」という提案は、同じ士業である、弁理士の父からの勧めでした。子供が生まれたばかりで、軽く受け流していたのですが、勤めていたコンサルティング会社の業績も芳しくなく、副社長で公認会計士の先生も、私を買ってくれてはいたのですが、「士業として、資格を持たないと、コンサルタントとしての大成は難しいだろう」と、丁度人手が余っていたこともあって、父に加担して留学を後押し、私はアメリカに留学し、資格取得を目指すことになりました。
なぜ、日本ではなくて、アメリカか?これには、昭和一桁生まれで英語に強いコンプレックスを持っていた父にとって、資格を取得すると同時に語学を習得出来るという環境が理想的という思いがあったのでしょう。なぜか、「アメリカに行け、アメリカが良い」と譲りませんでした。アメリカ全土を2周バックパック旅行していた私もアメリカの広大な大地が好きなタイプですので、断る理由も無く、家族には、苦労をかけましたが(企業派遣などと違い、ともかく貧乏留学でしたので)、アリゾナ大学で会計学を、ニューハンプシャーに移って、フランクリン・ピアース・ローセンター(現在のニューハンプシャー大学ロースクール)で法律を勉強して、1998年公認会計士試験に、1999年に弁護士試験にそれぞれ合格して、2000年にNY州の弁護士登録、2年の実務経験の後、2002年にNH州の公認会計士登録します(こちらは、現在Inactive)。
Tax Lawyerとしてのキャリアをスタート。
Law School時代の恩師で、私が卒業後、本当にすぐになくなってしまったDane Buck先生の影響で、税務に興味を持ちました。さまざまな出会いがあったのですが、最終面接がNYの弁護士試験合格発表の翌日というタイミングで、デロイト・アンド・トゥーシュ(Deloitte and Touche LLP)への入社が決まり、2000年1月、Tax Lawyerとしての生活が始まります。
仕事の中心は、国際税務。移転価格税制が90%です。しかしながら、お客様を訪問して、私が弁護士であることを知ると、「奥山さん、専門ではないことは、分かっているのだけれど、。。。。」と前置きを頂きながらも、「相談できる人が居なくて困っているんですよ。。。」と言われると、杓子定規に「専門外の質問にはお答えできません!」とは言えなくて、仕事時間外に、お調べして、「弁護士としてではなく、友人のアドバイスとして。。。」と申し上げながらも、アドバイスをさせて頂くことが頻繁に起きるようになってきました。この経験が、後に私がアンダーセンの崩壊で失業した際に、「日本語で」「気軽に」「料金を気にせず」に相談できると言うコンセプトを生み出した遠因になっています。
縁あって(後で振り返れば、最悪の「縁」でしたが)、アーサーアンダーセンに転職して、2ヵ月半で....会社の崩壊を目の当たりにします。世界の5大監査法人として君臨、その昔、巨大監査法人が10社程度あったころは、まさに、押しも押されもしない堂々の世界一の監査法人であったアーサーアンダーセン。まさに「アンダーセンがルールブック」と言われた時代からすると考えもしなかったアンダーセンが存在しない監査業界。全米第7位の企業である、巨大エネルギー商社、ENRONの不正会計処理に加担したと司法省に訴えられたアンダーセンが崩壊するという事態を、内部から観察できるという幸運(いや違った、悲運)に恵まれ、アメリカで失業の憂き目に遭います。
日本に帰ろうか?どうしようか?と、散々考えた末に、そうだ、昔お世話になった皆さんに、「日本語で」「気軽に」「時間(料金)を気にせずに」相談できるサービスを始めたら、ニーズがあるか、ご意見を伺ってみよう!と、思い立って、テネシー、ケンタッキー、ニューヨーク、ニュージャージーと車で走り回って(お金がありませんので)、皆さんのご意見を伺った上で、Strategic Legal Solutions,Inc.(SLS INC)を起業し、このウェブサイトの前身、Houmubu.Comを開設したのでした。